釜山要塞
目次
1 概要
2 年譜
3 主要な施設
4 歴代司令官 4.1 鎮海湾要塞司令官
4.2 釜山要塞司令官
5 脚注
6 関連項目
7 参考文献
概要
日露戦争に伴い、日本海軍が鎮海湾を安全に使用するため、1904年8月、第3臨時築城団が編成され、猪島砲台・外洋浦砲台が着工された。1905年4月、鎮海湾要塞司令部が設置された。
ワシントン会議以後、鎮海湾要塞の重要性は増し、1924年10月から1939年8月まで、その他の砲台と補助建築物を建造し、朝鮮海峡・釜山港の防備を強化した。要塞砲兵部隊である馬山重砲兵大隊は馬山重砲兵連隊に拡大改編され、要塞砲としては比較的新型の四五式十五糎加農砲が配備された。1941年7月7日には関東軍特種演習に伴い、準戦備及び要塞部隊の動員・臨時編成が下令された。
1942年6月、要塞の名称を釜山要塞と改称した。要塞砲部隊も7月1日に釜山要塞重砲兵連隊(通称号:朝鮮第7400部隊)となった。終戦時の同連隊の連隊長は橋口又七であった。
年譜
•1904年(明治37年)8月 - 猪島砲台・外洋浦砲台着工 ◦12月 猪島砲台・外洋浦砲台竣工
•1905年(明治38年)4月 - 鎮海湾要塞司令部設置
•1909年(明治42年)8月30日 - 要塞司令部が慶尚南道昌原郡馬山に移転[1]。
•1913年(大正2年)12月19日 - 要塞司令部が慶尚南道馬山府鎮海に移転[2]。
•1924年(大正13年)10月 - 張子嶝砲台着工
•1930年(昭和5年)3月10日 - 司令部構内で開かれた陸軍記念日祝賀上映会で火災が発生し、市民107人死亡、10人負傷(鎮海事件)[3]。 ◦10月 - 張子嶝砲台竣工
•1934年(昭和9年)5月 - 張子嶝第2砲台着工
•1935年(昭和10年)12月 - 張子嶝第2砲台竣工
•1936年(昭和11年)7月 - 只心島砲台着工 ◦この年 長承浦砲台竣工・猪島砲台廃止
•1937年(昭和12年)7月 - 機張砲台・絶影島砲台着工
•1938年(昭和13年)1月 - 只心島砲台竣工
•1939年(昭和14年)2月 - 絶影島砲台竣工 ◦3月 機張砲台竣工
•1942年(昭和17年)6月 - 釜山要塞に名称変更。
主要な施設
釜山•張子嶝砲台(砲塔砲台) ※未成戦艦「土佐」の主砲塔を設置。
•張子嶝第2砲台(低砲台)
•絶影島砲台
•機張砲台
鎮海•外洋浦砲台
巨済島•猪島砲台 ※1936年廃止
•只心島砲台
•長承浦砲台
歴代司令官
鎮海湾要塞司令官
•(兼)山路通信 砲兵少佐:1905年4月19日 - 1907年10月9日
•(兼)和田新蔵 砲兵中佐:1907年10月9日 -
•(兼)松丸松三郎 砲兵中佐:1908年12月21日 - 1911年11月22日
•(兼)山中茂 砲兵少佐:1911年11月22日 - 1913年6月25日 *本務・鎮海湾重砲兵大隊長
•(兼)城見多美弥 砲兵中佐:1913年6月25日 - 1914年6月13日 *本務・鎮海湾重砲兵大隊長
•柳貫一 砲兵大佐:1914年6月13日 - 1915年8月10日
•古川岩太郎 砲兵大佐:1915年8月10日 -
•宮下善吉 大佐:1918年3月13日 -
•垂井明平 少将:1918年7月24日 -
•芝生佐市郎 少将:1919年7月25日 -
•佐藤小次郎 少将:1920年2月23日 -
•曽田孝一郎 少将:1921年2月25日 -
•庄田藤治 少将:1922年8月15日 -
•河田四十一 少将:1923年8月6日 -
•松村純 少将:1925年5月1日 -
•大泉製之助 少将:1927年7月26日 -
•桜井源之助 少将:1928年8月10日 -
•西郷豊彦 少将:1930年4月28日 -
•西村迪雄 少将:1932年4月11日 -
•柴平四郎 少将:1934年3月5日 -
•石田保道 少将:1935年3月15日 -
•橋本群 少将:1935年10月11日 -
•石原常太郎 少将:1936年8月1日 -
•小泉恭次 少将:1938年7月15日 -
•下山源平 少将:1939年3月9日 -
•矢野音三郎 少将:1939年12月1日 -
•大津和郎 少将:1940年7月22日 -
•伴健雄 少将:1941年8月10日 - 1942年6月26日
釜山要塞司令官
•椎名正健 少将:1942年6月26日 -
•石本貞直 少将:1943年6月10日 -
•石川琢磨 少将:1944年5月10日 -
脚注
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[続きの解説]
「釜山要塞」の続きの解説一覧
•1 釜山要塞とは
•2 釜山要塞の概要
•3 関連項目
1920年(大正9年)7月19日神戸川崎造船所で起工し、1921年(大正10年)11月17日に進水[2]。ワシントン海軍軍縮条約により廃艦となり、魚雷(水雷爆弾)の実験に使用される予定だった[3]。ところが同条約の為航空母艦に改造中だった天城型巡洋戦艦「天城」が関東大震災で修理不能の損傷を受け、廃棄が決定する。そこで急遽代艦として本艦が航空母艦に改造された[4]。空母「加賀」は日本海軍航空隊の主力空母として活躍し、1942年(昭和17年)6月5日のミッドウェー海戦で沈没した。
土佐[編集]
タグボートに曳かれて長崎港を出港し、呉へ向かう「土佐」。1922年(大正11年)8月1日撮影。
1920年(大正9年)2月16日に三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)で起工[5]。式典には皇太子時代の昭和天皇と随行の東郷平八郎海軍大将が立会い、皇太子殿下が最初のリベットを締めたという[6]。1921年(大正10年)12月18日進水[7]。進水命名式には伏見宮博恭王や加藤友三郎海軍大臣も出席した。進水の際、くす玉が割れないという“事故”が発生し、縁起の悪さが囁かれた[8]。
ワシントン海軍軍縮条約の締結により、1922年(大正11年)2月5日に「土佐」の建造中止命令が発令され、同年7月に未成のまま海軍に引き渡された。この時点で最上甲板以下の船体はほぼ完成しており、砲塔や煙突なども別に建造が進められていた[9]。その後の船体は標的艦として使用されることが決定し[10]、建造に携わった造船関係者は「前途を祝福されたはずの土佐がドザ(水死体のこと)になった」と自嘲した[6]。その後、作業員の仮居住施設や被曳航装置の設置が行われ、同年8月1日から8月4日にかけて運用術練習艦「富士」に曳航されて、呉へと回航された。
呉に回航された「土佐」は、1924年(大正13年)6月から数ヶ月に渡る実験に従事した。実験内容は亀ヶ首試射場からの砲撃や船体に固定した爆薬を用いた[11]、砲弾や魚雷などに対する防御力強化や[12]新型砲弾(後の九一式徹甲弾)の効果の研究であり、これによって得られたデータは後の大和型戦艦の設計にも活かされた[13]。その後、「土佐」は1925年(大正14年)2月2日に標的艦「摂津」に曳航されて呉を出港し、翌日に佐伯港に入港して仮搭載物の撤去や自沈用発火装置の取り付けを行った。そして同年2月9日に、艦名の由来となった高知県の沖の島西方約10海里地点にて自沈した。自沈開始は午前1時25分、全没は午前7時頃。自沈地点の水深は350フィート[14]。
また「土佐」の主砲塔のうち2基は、陸軍の特殊起重機船「蜻州丸」(せいしゅうまる)により対馬要塞豊砲台に1基、釜山要塞張子嶝砲台に1基が運搬されて現地で要塞砲として活用された。横須賀海軍工廠で保管されていた三番砲塔は、1933年(昭和8年)に特務艦「知床」によって呉工廠へ運ばれ、長門型戦艦「長門」の改装に利用されたという[15]。
余談だが、長崎市の端島は、横から見た姿から“軍艦島”の愛称を持つが、これは土佐に似ていた事に由来すると言われる[16]。また、「土佐は自沈しておらず、どこかに秘匿されている」という噂が、当時の少年たちの間で囁かれていたという[17]。
計画要目[編集]
常備排水量 39,979トン
全長 234.09メートル
幅 32.3メートル
機関出力 91,000馬力
速力 26.5kt
兵装 41センチ45口径連装砲5基、14センチ50口径単装砲20基、7.6センチ40口径単装高角砲4基、61センチ水上魚雷発射管8門
戦後68年終戦の日特集 館山市の戦跡18 「洲崎第一砲台」(その1)
明治維新間もないころから始められた要塞の建設は、当時の土木技術の粋を集め、多大の年月と手間を費やし、昭和初期まで続けられました。
日本の近代化を進めた明治政府。
誕生間もない国家防衛の課題は、外国艦船の侵入から、首都東京を守ることでした。
日清・日露戦争を前に、敵艦船の本土侵入が想定され、防衛戦略は各地の沿岸へと拡大し、次々と要塞が建設されます。
第一次世界大戦後、軍備縮小の気運が高まり、大正11(1921)年、ワシントン海軍軍縮条約が締結されました。
当時、軍事力の中核は海軍力で、列強は競って「大艦巨砲」を生産していましたが、イギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリアという五大海軍国の主力艦の保有トン数が制限され、その比率が決められたのです。
旧日本海軍は、旧式艦を廃棄し、未完成艦の建造を中止しましたが、その結果、それらの艦の砲が余ることになりました。その一方で、旧陸軍は新型の砲を開発していました。
この無駄に気づき、海軍の余剰の砲を要塞に備えればよいと考えたのが、陸軍の重砲開発のチーフであったと言われています。
(사진)
日露戦争中に建造された戦艦「安芸」
(사진)포
城ケ島砲台(神奈川県三崎市)に設置された戦艦「安芸」の副砲塔
全体に陸軍の標準迷彩が施されています。
軍艦の砲を、陸上の砲台とするためには、最小限の改造で済ませることが目的とされました。費用がかかりすぎては元も子もありません。そのため、旋回部を含め軍艦の砲塔が、丸ごと砲台に設置されました。
(사진)
45口径30㎝加農砲塔砲台断面図
(学習研究社『日本の要塞』より転載)
陸軍風に「砲塔砲台」と名付けられたこうした砲台は、大正14年から昭和7(1932)年までの間に、朝鮮半島を含む各地に備えられました。
その配置状況をみると、東京湾と対馬海峡が重要視されていたことがわかります。対馬海峡に6、東京湾に4、津軽海峡に1、豊後水道に1の計12カ所に置かれました。
(사진) 한반도와일본포탑포대)
日本の砲塔砲台
(学習研究社『日本の要塞』より転載)
砲塔砲台一覧
砲台/砲種/制定年月/旧砲塔搭載艦
①千代ケ崎砲台(神奈川県横須賀市)/45口径30㎝カノン砲/昭和3年10月/戦艦鹿島
②大島砲台(長崎県平戸市)/45口径30㎝カノン砲/昭和7年3月/戦艦鹿島
③大間崎砲台(青森県大間町)/45口径30㎝カノン砲/昭和7年11月/巡洋戦艦伊吹
④鶴見崎砲台(大分県佐伯市)/45口径30㎝カノン砲/不明/巡洋戦艦伊吹
⑤洲崎第一砲台(館山市)/45口径30㎝カノン砲/不明(昭和7年)/巡洋艦生駒
⑥城ケ島砲台(神奈川県三崎市)/45口径25㎝カノン砲/昭和6年8月/戦艦安芸
⑦大房岬砲台(南房総市)/45口径25㎝カノン砲/昭和7年3月/巡洋戦艦鞍馬
⑧竜ノ崎第一砲台(長崎県対馬市)/50口径30㎝カノン砲/昭和8年9月/戦艦摂津
⑨竜ノ崎第二砲台(長崎県対馬市)/50口径30㎝カノン砲/不明/戦艦摂津
⑩張子嶝砲台(韓国釜山広域市)/45口径40㎝カノン砲/昭和9年8月/戦艦土佐
⑪黒崎砲台(長崎県壱岐市)/45口径40㎝カノン砲/不明/巡洋戦艦赤城
⑫豊砲台(長崎県対馬市)/45口径40㎝カノン砲/不明/戦艦土佐
東京湾には、千代ケ崎砲台(神奈川県横須賀市)、城ヶ島砲台(同三浦市)、大房岬砲台(南房総市富浦町)、そして洲崎第一砲台(館山市加賀名)と、湾の入口をふさぐように、砲塔砲台が設置されました。
사진 동경만에설치한포탑포대)
東京湾に配置された砲塔砲台
(学習研究社『日本の要塞』より転載)
豊砲台跡
迫力満点の大きさ!現在は遊歩道園地として整備されている。.
豊砲台跡(사진)
世界軍縮会議の結果、廃艦となった軍艦「赤城」の主砲(「長門」「土佐」という説もある)をこの砲台に据えたもので当時は世界最大の巨砲でした。
豊砲台は、実践では一度も発射することがなく、「撃たずの砲台」と言われたりもしますが、第2次大戦時に日本海側の都市に艦砲射撃による被害がなかったのは、対馬要塞の強力な火砲による威圧の効果が大きかったためです。砲台入口まで車で行くことができ、入口の照明スイッチを押すと照明が30分間点灯するため、砲座・砲具庫・巻揚機室などの内部構造を安心して観察することが出来ます。
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